劇場鑑賞感想
RotK
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トータル鑑賞第一回直後の感想。ネタバレ
今まででこれほど公開前に気を使って見た映画はない、といっても過言でない、「王の帰還」を見ました。
エピソードがエピソードを呼び、モルドールのホビットたちと、ローハンの進軍と、アラゴルたちの別動と、ミナス・ティリスの動きが時系列に沿って緊迫感を持続させたまま進んで行くところは「凄まじい」印象さえ持ちました。、合戦と指輪棄却の旅とがよじれながら、映し出され、最後の滅びの山での指輪棄却のシーンは本当に圧巻でした。
サムが指輪を担う事はできないけれど、あなたを担う事はできる、というシーンも、指輪は私ものものと宣言するときのフロドの表情も、そしてゴラムが指輪ごと火口に落ちて、指輪棄却がかなった後のフロドの穏やかな表情も、そのどれもが素晴らしく、身にしみて感じられました。
ガンダルフの靱さ、アラゴルンの勇猛さ、レゴラスとギムリのFellowship、ローハンの勇ましさ、ゴンドールの悲劇さ、そういった全てが一塊となって、見ている自分の中になだれ込んできて息がつけなくなりそうになる、そんなめいっぱいな映画に感じられました。
そして、なによりこの映画はホビットたちの映画になっていたな、と思いました。 「最も暗い旅路」にあったフロドとサムは言うには及ばず、メリーもピピンも含めて、なんと彼らはホビット庄から遠くへ来てしまったのかと、状況に翻弄される彼らに涙を禁じ得ませんでした。その彼らが、彼らの中で、果たすべき役目を果たし、それぞれがそれぞれの勲しを立て、そしてホビット庄に帰ってくる。 緑龍亭で、どことなくぎこちないながらも、ホビット庄の平和な空気を享受し、笑う姿が、やはり、旅に出る前とは変わってしまったんだ、と改めて思わされ、 せつなくなりました。
コルマレンの野の祝いの宴と、戴冠式と結婚式をいっぺんにしてしまった にぎやかさも、掃討の影のない、憂いのないホビット庄も、サムとロージーの 可愛らしい結婚式も、これらのめでたさ、にぎやかさも、やはり灰色港での別れの悲しさ、辛さを和らげる事がない、というのが、指輪物語らしく本当に良かったと思いました。
黄昏の灰色港で、フロドが最後に見せた、美しい微笑みは、彼が、サウロンや 指輪から受けた傷が、遠いアマンの地で癒されるその約束に見えて、フロドは中つ国にはいられないけれども、もう影に苦しむ事はないのだと、わかって、哀しい中にも安堵感を覚える事ができました。
ただやはり、思っていたとおり、あまりにも多すぎるエピソードを詰め込んだため、映画としてかなり窮屈で急いだつくりに見えます。 一本一本の映画として見たときのまとまりは良いにしても、3部作で考えてみると、微妙にバランスの悪い3本である、という感じは否めません。映画二つの塔で、原作の二つの塔分まで撮りきっていないですから、難しい所です。 もちろん、それぞれ単品の映画としてある程度まとまるために、 必要な事だった訳ですが。 「旅の仲間」と「王の帰還」は特に、エピソードをかなり密に、濃く詰め込んであるために、映画の話の筋立てとしての緩急がかなり無視され、原作を知らない人は、そういった意味では映画としては、「二つの塔」を一番おもしろいと感じるかもしれない、と思いました。
あまりにみっちりと撮られ、編集された映画なので、一回だけでは、どれほどの情報を映画から得る事ができたのか、まだわからない状態です。
これほど、一度見た後に、また繰り返し見たくなっている映画もありません。
ここまで指輪物語を撮りきった、PJ監督には脱帽、としかいいようがありません。本当に、とてつもない映画だと思いました。
細かい個々のキャラクターや場面に関してはまた別に語っていってみたいと思っています。
04/02/16
失われた王国
Caution〜こちらの感想は、書籍から指輪物語に触れ、なおかつ人間びいき(特にゴンドールびいきの)人間が今回の映画に関して不満に感じた事を語っておりますので、映画&PJ監督至上主義の方は、もし読まれる場合は、その心づもりの上お読みください。
圧倒された「王の帰還」ですが、自分の中で折り合いがつかない部分がやはりあります。いくつかある中で一番大きなものは、ゴンドールの扱いです。 映画と原作を切り離して考えなければいけないことは重々承知の上です。 SEEで多少補完されうるだろう、という事も、いろいろと対比されなければいけないということも、一回しか見ていないから、いくつも見落としや、捕らえ違いがあるだろう、ということを承知の上でまずは言いたい事があります。
映画で、何故ゴンドールはあそこまで卑小なものに描かれなければならかったのでしょうか。
あの映画を見た人間にとって、ゴンドールが二つの塔で語られた「自由な人間の王国の最後の砦」に見えるのでしょうか、ボロミアが誇りを持って愛した国にみえるのでしょうか、あれがアラゴルンが還るべき王国に見えるのだというのでしょうか? ゴンドールという国がどういう国なのか。 3000年前に建国されていらい、東と南と北からの襲撃をおさえてきたはずの国が、どこにあるのでしょうか。
映画のゴンドールは初めから都ごと迷妄に捕らわれ、まさに「失われた王国」 の都としか見えません。 映画だけではゴンドールの領土の広さすら見えてこない。ただミナスティリスと オスギリアスがあるだけのように見えます。 あまりにも時間が足りなさすぎるせいだ、とは思いますが、 1000年の間、サウロンが君臨するモルドールと対峙し続けた国、 ゴンドールの感じていた恐怖と絶望が、画面から伝わってこないような気がしました。二つの塔でのオスギリアスのシーンで、ゴンドールの窮状が良く見せられていただけにとても惜しい印象です。
そしてミナスティリスの防衛線は惨憺たるありさまです。原作でさえ、敵の勢力に比べればゴンドールの兵力は圧倒的に少ないのに、映画のゴンドールは、南から都にあがってくる兵もなく、ミナス・ティリスから民は避難しておらず、 防衛戦にあたり、兵を束ねる将が一人もいないようにさえ見えます。
そしてその執政は映画で出てきた時から既に、妄執に捕らわれ、まつりごとも何もかもを放棄しているかのように見えます。 屋台骨が既に崩れた国である、と、そう映画では描きたいのだという事かもしれません。
確かに原作においても、デネソールはパランティアから受けたサウロンの 影に毒され、正気とは言えません。 しかしそれでも彼の中にある誇りは高く、執政であるという意識は、 デネソールであることは分かたれないものの筈なのに。 その彼をして、兵に持ち場を離れ逃げよと言わせるとは。
映画のゴンドールとはそういう国なのでしょうか。映画のゴンドールはほとんど死んでいる国でした。 二つの塔でローハンで描かれたような王(ゴンドールの場合は執政なわけですが)と、民と将の姿が見えない。 兵を率い都にあがってきた諸侯たち、都の大将たち、ミナスティリスで、カイア・アンドロスで、アノリアンで職分を勤めていたゴンドールの兵士たち、南の領土で、ウンバールやハラドと対峙しているものたちの姿が、見えない。
王が託し、それを受けた執政家が「王還りますまで」と誓って守り続けられてきた筈の、サウロンとずっと戦ってきた筈の王国の姿が、どこにも見えないのです。
そしてその王と執政の関係も、映画ではほとんど触れられていません。 イシルドゥアの呪いが3000年残っていた一方で、エアルヌア王と執政マルディルの間でなされた誓いも1000年残っていた。そもそも王がいない王国というのは、ありえません。王と執政との間での誓言があったからこそ、かろうじてゴンドールは王がいなくなった後でも滅びなかった。1000年の間に執政家の誓いの中身は大分歪んでしまいはしたけれども。
救援に向かうローハンと対比させたいのかもしれません。またローハンで描いた事をゴンドールで繰り返す事を避けたのかもしれません。アラゴルンをフィーチャーするために、それが必要だとPJが考えたと言うことなのでしょう。
そしてローハンとゴンドールの盟約も、その盟約がどういったものであったのかがぼかして語られてしまっているために、そして救援を「乞う」たのが「執政」でなく、「ガンダルフ」であったために、ゴンドールとローハンとの間の友誼や信義といったものが良く見えてきません。これまでの経緯を知らなければ、映画の観客は、ごく単純に、「セオデン王は偉いなあ、自分の事は助けてもらわなかったのに、ゴンドールを助けに行くんだ」と思うだけでしょう。 それもまたある面真実の一部であることは確かですが、ローハンとゴンドールの 間はそれだけでは語れない筈なのに。
時間配分のせいなのかもしれないし、関係が複雑になりすぎるからかもしれないし、そもそも、指輪棄却や、アラゴルンその人の行動において、必要ないシークエンスであるからなのかもしれませんが。
王が還ったから、だけではなく、人間が人間にかけた呪が解放され、 人間と人間の間でなされた盟約が果たされたからこそ、第4紀の人間の時代が 明るいのではないのか? と思えるのに、そのあたりがぼやけてしまったのが残念でした。
王の帰還初見で、私がゴンドールに感じたものは「哀」です。デネソールやファラミアの改変よりも何より、ゴンドールという国の描かれ方が、私には哀しかったです。
04/02/16
人間の王
映画のアラゴルンは本当に人間の王様だな、という印象がとても強いです。。 迷い、悩み、最後まで王になることをどこかためらう部分を残して王さまになったようにさえ見えてしまいます。それはどこから来るものなのでしょうか。
劇場版でのアラゴルンは(時間的にかなりカットされたから、という部分も多分にあるのでしょうが) アラゴルンの意志があまりはっきり観てとれません。どこか他人に押されて行く道を決めたような印象があります。 それは、死者の道を選ぶ状況や、ガンダルフのミナス・ティリスからの知らせを待っていた時の どこか所在なげな状況のせいかもしれません。ペレンノールの戦い以降はゴンドールの王として先頭きって 進軍していきますが、それまでは、はっきりした「王になる」「王として還る」意志が見えず、原作の アラゴルンの動きとは大分違います。
劇場版では、アラゴルンを王とする理由の中で、「血統による正当性」を現すシークエンスはことごとく削られていたような気がします。
映画の彼はオルサンクのパランティアを扱いかね、ガンダルフに示唆された死者の道をエルロンドに促されてようやっとくぐり、死者の王をその名と剣ですぐさま従えるのではなく、南の領土の国人は彼に従ってやって来ず、そしてミナス・ティリスで癒しの技を見せません。
SEEでは入ると言われている部分もありますが、劇場版もまた一つのPJ映画の完成型として 観るならば、PJ映画のアラゴルンは、血統による正当性を第一義として王になるワケではない、という事を アピールしているのではないか、と感じます。
劇場版において、アラゴルンがもっとも王たるにふさわしいシーンは黒門前でゴンドールとローハン の戦士たちを前に、彼らと恐らくは自分自身をも鼓舞する演説シーンでしょう。 映画の彼は、超常的な力や、正統な血統の故に王となるのではなく、ローハンとゴンドール の盟友を率い、サウロンと戦う姿勢を見せる事で王たることを示すのでしょう。
原作の、自らの中の連綿と連なる血脈を誇りにこそすれ否定せず、最初から王たることに疑いのない 明らかに並の人間以上の存在である「英雄」アラゴルンとはやはり違います。 原作の英雄アラゴルンがそのような性質と、性格付けであるからこそ、追補編で彼が言う、 「最後のヌメノーリアンであり、上古の代の最後の王である」という台詞が生きてくるのだと思いますし、 原作の彼は中つ国にエルフが居て、指輪があった、神話的な世界である第三紀と、エルフが去り、 人間の世界となった第四紀をつなぐ王であり、人間とエルフの双方にとっての望みであり、 その「神話」から「歴史」の世へ移る大転換期をつなぐ王であるのだと思います。
映画のアラゴルンも、もちろん「英雄」ではありますが、より現代的であり、より相対的な「英雄」です。 映画の彼は、原作のアラゴルンに見られるような、神話的、超人的な要素は大分なりをひそめ、最初から或る部分「普通の人間」というポジションにいます。それはもちろん、イシルドゥアの末裔であるとか、エルフに育てられたとか、とても強いとか、並の人間よりずっと長生きである、という要素は持っていますが、 そういった要素を持ちながら、映画のアラゴルンは少なくともその思考方向という点で、並の人間を超えるものではありません。自分の進むべき道について、王となることも、恋を成就することにも、とまどい迷い、いかにも人間的な苦悩を背負っています。
PJの描いたアラゴルンはそういったキャラクターなのだと思います。
、映画のアラゴルンがそのように描かれた以上、執政家がそれを受けて変容せざるを得なかったのは 映画では当然とも考えられます。
執政家は特別な血統を持たず、たまたま能力と運が巡って(これはいいすぎかな?(^^;)) 統治者のポジションについた家系であり、現当主はサウロンの脅威と息子を失った絶望により、 迷妄し、統治者として不適格な人物である、と。
そしてアラゴルンは正統な王の子孫であるから、 ゴンドールが失われたら中つ国の人間の世界の核がなくなるから、ゴンドールを救いに還るのではなく、 ボロミアとの約定を果たすために、不適格な統治者の代わりに、よりよい統治者となりうる人物として、ゴンドールを救うために還ってくるのです。
そういう意味で劇場版アラゴルンはまったき「人間の王」なのだと思います。 それはいかにも現代的な解釈が付加されたように見えますが、その解釈はしかし、多くの現代人である観客をひきつけ、映画のアラゴルンが評価されている一つの理由であると思います。
RotK・劇場版アラゴルンからは前作、前々作以上に原作とは趣の違うアラゴルン像をみせられたような気がします。一回みた段階で私が感じている、現代的解釈のアラゴルン像が、回数を重ねた後に、またSEEが出た後に自分の中でどうかわっていくかが楽しみです。
04/03/05
公式サイト:http://www.lordoftherings.net/index_flat.html
公式サイト(English)
公式サイト:http://www.lotr.jp/
公式サイト(日本)
The OneRing.net:http://www.theonering.net/index.shtml
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