The Two Tower


字幕

封切り日に待ち望んで映画を見るなんて何年ぶりでしょう! とにかく待ちに待った公開日でした。 木曜から指定席とってGO! 出かける前からアドレナリン出まくっているのが分かります>落ち着け! 自分。 落ち着け!(笑)

で、見てきました。見終わった正直な感想

・・・私は混乱している・・・

いやもう正直話を追うだけで精一杯だったというのもあります。映画は3ルートそれぞれが時間軸にそって 進むために、あっちの話こっちの話で話においていかれないようにするのがやっとでした。 こうしてみるとFotRは視点が仲間で統一されるからわかりやすかったと思いました。 いえ、特にTTTがわかりにくいという訳ではないのですが、がんがん場面が飛ぶので、原作未読者には 最初慣れるまで結構タイヘンじゃないか? と思ったり。
なんかもうどこからかじりついたらいいのか分からない状態です。あまりに物事が詰まりすぎている!
前作は「世界」をまず見せてくれた部分というのが大きかったと思うのですが(ホビット庄や裂け谷、 アイゼンガルド、ロスロリエンといった「場所」エルフやドワーフや人間やオークといった「種族」) 今回はそれは前提として話とキャラクターを撮っているのかな、という印象でした。 今回は仲間が別れた分、前作のように仲間間での身長差とかがあまり意識されないためそういう印象が強く 感じられたのかもしれません。
ただちょっと気になったのは、人間たちがエルフやドワーフやホビットにあまり驚いていない事、かな? この時代はもう、エルフやドワーフやホビットや王様の子孫というのは伝承の中にあるようなもの、という 事だと思っていたのですが、映画設定ではエルフやドワーフはもっと人間たちと近しい存在という事なのでしょうか。 もうちょっとエルフの存在に驚いて欲しかったような気がしました。

キャラクターの関係はとても良い感じです。アラゴルンとギムリとレゴラスの信頼関係もよく出ているし、 サムとフロドとゴラムもいい。特にゴラムは生々しくて良かったです。ケモノ臭くて、フロドとサムから浮いていない 所がすごいなあ、と。メリーとピピンもいいです。3ルートの仲間たちそれぞれがそれぞれでできることを がんばっているというのが、特にメリピピルートを見ていると(ルートにかけられた時間は短いのですが、泣かせどころ なセリフを言ってくれて)思いました。

見る前からの情報で、TTTはかなり映画的に脚色が色濃くされているという話をきき、主要なキャラクターの 性格設定なども変わっている様だ、という事は耳にしていたので、ある意味構えていた所がありました。 その改変に関しては「・・・ビミョウ」
自分的にはぎりぎりセーフ、というか次でどう収集つけるか、持ち越しかな? 今の時点ではそれほど「ひどい! 」と思っている部分はありませんでした。(でも人によっては嘘ぉ!!!と 思うかもしれない脚色だとは思いました)

コマーシャルでは人間・エルフ・ドワーフルートに重きがおかれていましたが、映画のフロドルートが、 うわあああああああ どうしよううううう と思うくらい切ないシーン、切ないセリフ、切ない彼らの表情満載で、 今からこれじゃあ王の帰還は涙なしに見られないかも! でした。全般に重く暗くなってきたフロドが 、時折ふと見せる弱い微笑みがまた泣かせるというか・・ホントに今からこれじゃあ・・(泣) アラゴルンルートで、彼が人間の王への道を進もうとしている、というのが だんだん出てきてちょっと頼もしい感じがしました。映画のアラゴルンは人間としてはちょっと引き気味な所がFotRでは あったと思うのですが、ボロミアの死以降、また彼がローハンの人々と共に闘う事で変わってきているなあ、と。 がんばれアラゴルン! という気持ちになりました。
アルウェンとアラゴルンのシーンはエルフが人と結ばれる事による哀しみ、が奇麗に映像化されていて うわきた〜という所。しかしまさか追補編の「アラゴルンとアルウェンの物語」からあそこまで入れるとは ちょっとオドロキでした。

こまごました所・・・ゴンドールのレンジャーかっこいいぞ! とか、ああ、こういう状況でアラゴルンに 会ってしまったらエオウィンは一目で彼に恋するだろうな、とか、オリファントとか東夷南蛮とか黒門とかオスギリアスとか ヘンネス・アンヌーンとかエントとかいろいろぐるぐるはしていますがとにかく 今日の私は混乱しています。

明日吹き替えにチャレンジです
03/02/22

ファラミアについて 〜原作からの改変

今回、ファラミアの解釈が大分原作からずれているらしい、という噂は、実は見る前からちらっと 仕入れていました。言う人によれば「恐るべき改変」で、「指輪をゴンドールへ、なんて高潔な人柄はどこへいったの?」 という論議が沸き上がっているようです。確かに、原作の彼は「たとえ道端に転がっていようとそれを取ろうとは思わない」 という方ですから、そうやってみるとかなりとんでもなく見えます。でも本当にとんでもないのかな〜 というのが私の印象 でした。私が見た限りではこれもありかな、という気がするのです。

映画の中の彼を見てみます。

基本的にはとても煮詰まってる状態に見えました。部下からの報告で、敵の勢力がいよいよ増すのを知り、一方の自国側は 戦力の増強など臨むべくもなく、ゴンドールはモルドールからの軍とサルマンの軍とからで襲われたらもう守りきれないのではないだろうか? という状況です。原作でアラゴルンが言う”ファラミア殿がその前哨地点を守ろうと悪戦苦闘しておられたその時でさえ 、暗闇は気付かぬ間に徐々にかれを浸食していたにちがいない” という所がかなり強く描かれていたような気がします。彼は疲れていて、父親の不興と、現在のゴンドールの 状況に絶望しかかっている。そしてそんな状況下でフロドとサムと出会うのです。

まだいろいろわかっていない状況でのフロドたちの扱いがちょっと乱暴ですが、映画ではハラドの軍隊との 直接交戦中に見つけたからあんなものかな、という感じ(原作ではハラドとの交戦の数時間前に見つかって ますからまだ余裕のあったのかなと。これから敵が来ようという所をのんびりと火をたいてるホビットを見つけるのと、 ハラドとの交戦中に、闘いを見つめていた怪しいホビットを見つけるのとでは扱いが違っても しょうがないかな、という印象でした。)
ここでも小さい人にあまり驚いていないみたいなファラミアたちですが、映画設定は人間とドワーフとエルフとホビットとかが もっと近しくて全域ブリー村みたいなのかなあ? 「・・・子供、ではないな、オマエ達はいったい何もんじゃあ」という部分がないような。

さて、映画でも原作でもファラミアは似たような事を言います
原作で

So that is the answer to all the riddles! ...中略... And here in the wild I have you: two haflings, and a host of men at my call. And the Ring of Rings.Apretty stroke of fortune! A chance for Faramir, captain of Gondor, to show his quality.

邦訳では「それではこれがすべての謎への答えであったか。...中略... そして人気ない荒れ地のこの場所でそなたたちはわたしの掌中にある。小さい人二人に わたしの命令を待機している大勢の部下たち、それと指輪の中の指輪というわけだ。思いもかけぬ幸運ではないか! ゴンドールの大将、ファラミアが その人柄を示す機会とはな!」

とあって、映画でもほとんど同じ事を言っています(The seat of Kingsという聞き取りスクリプト公開ページの参考によります)
で問題になるのが、原作では I am not such a man.といって指輪を取ろうとせずホビットとたちを休ませて旅立たせるのに、 映画では The Ring will go to Gondor.って言ってオスギリアスに向かってしまうところなんですね。

確かに今回の映画の特にここだけ見るとファラミア悪いヤツ、という風になるのですが、
この反応の差は何なのか? 私はこれは映画と原作のファラミアの差は知識量の差、認識力の差なのではないかと思います。 原作のファラミアはガンダルフとの親交の深さ、本人の知識欲と理解力に優れていたために、「イシルドゥアの災い」が示す事をかなり正確に理解しています。しかし映画のファラミアはそうは見えません。指輪について良くわかっていない、というか自分なりの意見を持っているようには見えません。映画のファラミアは原作のファラミアほど伝承に詳しかったり、しないんじゃないかな? と。 「力の指輪」というものに対する認識が原作とは違い、父デネソールの考えをそれほど疑いなく受け入れてひょっとするとガンダルフともそれほど親しい、という訳ではなくて指輪については父や兄と同じくらいの認識しか持っていないのかもしれない。そんな感じがするのです。

なので最初は都合良く飛び込んできた指輪を、ゴンドールに持って行ければゴンドールにとっては 力となり、その力をもたらした自分を父親は認めてくれるかもしれない、という喜びを感じたと。 彼にとってはゴンドールに利をもたらす行為の方がホビットの話に耳を傾けるより重要に感じられた。
ただ、彼の表情から、心のどこかでそれはあやまっている行為だ、ホビットの言うことの方が正しい、と思っているような 部分を感じられたのです。フロドがだめだ! といってサムがこれは重荷でほろぼさなければいけない! と言うのを聞いたあたりで特に。迷いを持ったようなためらい、というか指輪の力に疑いを抱いた、というような事です。 今まで自分が考えていた力の指輪、例えばそれは指輪の力を使えば敵を叩きのめす事ができるだろうといったような 考えとは、何か違うのではないかと思い始めた。しかし彼はそれでも父に対する忠誠や 不確かな自分の印象のみで指輪をあきらめることはできなかった。それで指輪はゴンドールへ、と口にする。
そしてオスギリアスでサムがボロミアの変節を語る所、彼にとっては信じがたい事であった筈。 彼の忠節をつくす相手であり、ゴンドールに並ぶもののないと思われたボロミアが指輪に屈したという事は 彼が少なからず抱き初めていた指輪への疑いを強めた。そしてナズグルの来襲に誘蛾灯に惹きつけられる ようにひきよせられていったフロド。それを見て指輪をつかいこなす、という事はあまりに不遜に過ぎ、 ゴンドールを破滅に直行させる事以外の何者でもない、という事が分かったのではないでしょうか? 指輪が彼や彼の父親が考えていたようなものではなく、ただ滅びの力、負の力であって、それによって ゴンドールが保ったとしても、それはもはや、彼が守りたいゴンドールではない、モルドールと同じ事だと。

それで彼はforgiveの意味でもってフロドの前にひざまづき、君と私の理解は一致した、すなわちこの 指輪はその力を使うべきものではなくて滅ぼすべきものだ、と伝え、彼を解放すると宣言するのだと 思うのです。そこにはやはり変えられているとはいっても、相手を理解し、同情する 篤にあつい、高潔の士、ファラミアがいると、思いました。そしてフロドの旅が非常に辛い望みのない旅であること も理解したと。
今回の部分だけで語るのはとても難しい事かもしれませんが、王の帰還で指輪をなぜ持ってこなかった! と憤るデネソールに、はじめは持ってこようと思ったけどあの指輪はそういうものではありません、というような 事をきちんと言えるファラミアさんなんじゃないのかな、と思った訳です。

私は見たのです。かの指輪が小さき人になした事を。その滅びへの力を。 あれはゴンドールにとって良きものには決してなりえません。 あれは小さき人の言うとおり、葬りさるべきものです。

小さき人を脅かした力が、我らを脅かさない事がありましょうか。 小さき人は言いましたぞ、かのボロミアですら、あの高潔で気高いわが兄、ボロミアですら、 指輪に惑わされ、自らの誓いを破って指輪を取ろうとしたと。


・・・なんてね(ちょと捏造)

そしてまたさらにデネパパの不興をかうのだな〜 きっと(泣)

今疲れていて戦闘にもちょっぴり倦んでいて、でも自分がやらないといけない、というのが分かっていて、 迷ったり、間違った判断を下す事もあるけれど最終的には正しい判断を下す善き人という ファラミアが映画では描かれているように見えて、私はこの映画ファラミア結構好みです。なんかいろいろ結構怒ってるひと多いようですが(笑) 人間としての弱さを持つけれども決して愚かではない、ファラミア、それが映画の彼ではないかと思うのです。 後はSEEでもう少しセリフとか情景が増えてまた雰囲気が変わるのじゃないかな〜という期待もありますし (私にとって、ガラドリエルがかなり印象が変わったように)

それにそういう迷うトコとかがないと、やはり原作から変わってしまっているアラゴルンとの釣り合いも取れないしなあ・・・とか。 なので今回の改変は今のとこ自分的にはありだなと思っています(それは王の血筋に迷いまくっているアラゴルンを 映画のアラゴルンとしてありだ、と思うように、違和感はあるけれど、映画の彼を否定したくはない、という所 でしょうか)彼が癒されて、なんの憂いもない笑顔を浮かべるようになってくれるのを王の帰還でとてもとても期待しています。
03/02/25

字幕2・吹き替え1鑑賞後感想


1回目見た後はもうなんというか、いったい何て言えばいいのよ〜〜というのが正直な所でして、 ゴラムがゴラムがとかフロドがフロドが、とかアラゴルンがアラゴルンがとかなんかそういう感じでした。 複数回見てちょっと落ち着いた感じです。
今の感想は大ざっぱにいうと

やっぱり3パート映画の2パート目。ものすごくいろんなものがもりだくさん。咀嚼するのに時間かかる。

なんというか個々のパートについて語りはじめるといろいろあるのですが、では「二つの塔」という 映画として語ろうとすると言葉に詰まってしまいます。 ああいう展開なだけに語るのが難しい話ではあるのですが。原作二つの塔に入っている ローハン・エントルートのオルサンクでのできごとと、指輪捨てルートのキリスウンゴル登り(その他) がないために「二つの塔」のイメージがぼやけた感じになっているような気がしました。 一応サルマンさまがオルサンクとバラドドゥアが手を組めば、みたいな事言ってますが、その時だけで 塔そのものにからんだシーンは実は少ないのですね。もちろん、二つの塔の勢力があきらかにされていて そのことだと言われればそれまでなのですが。サウロン側に組するオークや東夷南方人、 オルサンクにあおられる褐色人やウルクハイたちの映像化というだけでも確かにものすごいわけですし。

自分的には二つの塔、これはこれとして、王の帰還はどうなるんだよ〜〜〜!! という叫びが実は一番最初にあるかもです。 上述の通り、指輪捨てルートはまだキリスウンゴルに上っていない。 エントルートとローハンルートはまだ交錯してない。 ・・・どーーすんのよううう どこか切れるの???切れるの???
だって指輪ルートはあの方が出てきて、いろいろモルドールさまよいまくりでしょう? 別働隊は、オルサンクとか、パランティアとか、ゴンドールの執政親子とか 合戦だってペレンノール野のでっっっかい合戦とコルマルレン野の合戦があって いろいろいろいろあって、そしてみんな再会できて、そしてラスト灰色港・・・
これが3時間半程度の劇場公開に納まるの????  ムリちゃうか??? じゃあどこ切るんだ〜〜〜〜 劇場公開を4時間半くらいにするとか、マトリックスみたいに半年おいて公開するとかしないと マジで入らないかもしれません。 うーーん。映画の撮影自体は、かなりの部分やっているらしいのは噂(とかメイキングブックとかで)で聞いているのですが、後はそれをどこまで入れるかなんでしょうね。

とそのへんがすごく気になっています。 前作の時はこんな心配はあまりなくって、「次はどうなるのかな〜わくわく」って純粋な期待感だったのですが、今回は「次でホントに最後まで行くんかい〜〜」って感じ せっかくここまで作ってきたんだから2部に分けてでもいいから最後もびしっと決めて欲しいなあ、と。 ただ2本にしちゃうと指輪ルートがちょっと助長になる恐れは確かにあるのでそのへんが微妙。 やはり劇場公開4時間? 長いといわれたベンハーでさえ3時間半だから4時間はムリか? なんだかじたばたしちゃうなあ。

さて二つの塔に話を戻すと、 話的に気に入っているのは指輪ルート。ゴラムは鬱陶しく生々しいし、サムはかっこいいし フロドはちょっとへろへろすぎかもですが、とりあえず良しだし、ファラミアの(というよりはゴンドールの国が今抱えている)絶望感がいいし、かなりここでこんな事していいのか? という部分はあるのですが、 映画的クライマックスにもりあげられていて、じーんと来ました。ネットでは賛否両論のオスギリアスでのフロドの行動ですが(ナズグルの眼前に出ていって指輪をはめようとする)これはちょっぴりビミョウかな。映画後、原作を読み返してみて、二つの塔の下巻に、ミナスモルグルから出陣するナズグルの首領と フロドたちが近接するシーンがあって、そこではフロドは自らの意志でなく、指輪とその王という 外からの力で、指輪をはめようとして、そこでガラドリエルからの玻璃瓶の力を受け、指輪をはめるのを 免れている、というのがありました。
映画はここをアレンジしたのかな、と思ったのですが、映画だと指輪をはめないで済むのはサムが突進したおかげ、という風に見えるのがちょっと気にかかります。 ただフロドが指輪を指に通そうとして目をつぶって、それからサムが突進するまでにちょっとタイムラグがあった気がするので、ひょっとしたらあのタイムラグ分で指輪をはめるのを留めたという事なのかもしれません。でもビミョウ。 一応指輪ははめてないし、ぎりぎりセーフの演出かな〜とは思いますが。 ただあそこで指輪をはめない、フロドの意志を見せて、なおサムがフロドをかばってナズグルから 逃れさせる、といった方が良かったなあ、と思いました。
そうすると、あの滅びの亀裂で指輪をはめようとする所が際だつと思うので。 あの滅びの亀裂での出来事の一番の恐ろしさと悲しさは、指輪をはめる行為そのものではなく、 フロドの意志で(それが指輪の影響であっても)指輪は私のものだ、指輪は捨てないと宣言してはめるその宣言だと思ので、ずるずる指輪にひっぱられてはめそうになっているフロドよりも、ひっぱられながらも彼自身の力で抵抗していたのに、それが・・・という事になるのがいいかなあ、と(あくまで私が 勝手に思っている事でありますが)
なので、あのタイムラグ(フカヨミしすぎか(^^;)) をそう思って見る事にします。きっとあそこでフロドは奥方さまの玻璃を握りしめたんだわ! 指輪をはめないのは フロドの意志だった!(だからフカヨミしすぎだってば)
その後に続くサムのセリフは・・・うーーんかっこいい! でもここは初見の字幕の時は分かりにくかったです。漠然と「そういえばこういうセリフ原作のどっかにあったな〜」とか思いながら聞いてました(^^;) 字幕だとかなり漫然としちゃって、どうして急に物語りの中の話になるのかが読みにくかったのです。 ここは特に吹き替えが良かったと思います。サムがかなり語ってしまっています。原作でもキリスウンゴルで ほぼ同じような事を言っているのですが、映画のサムはとても賢い感じなので、いろんな事が分かっていて あのような事をいう、いわば賢者の語りで、原作のただ自然と心のうちに沸き上がった想いをそのままの、 純朴な語りと一線を画しているようでちょっとそのあたりが鼻につく感じがしました。映画見ているときは かなり感動して見ていたのですが、後から考えるとあれでいいのかな〜と思ったり。 もちろん映画のサムはFotRの時から「賢い」サムですから、あれでいいのかもしれません。 現代の世の中で主従間の愛情とか、お仕えする、という感覚は難しいのかもしれません。 少なくとも映画のサムはフロドに盲目的についていく感じはしません。 イライジャとショーンの二人がアメリカ人だというのもあるし、今の時代、主従というよりは友情をメインに 押し出した作りになるのはしょうがないのかもしれません。 そういう意味ではFotRの人間組の方がよっぽど主従を意識した作りになっているような気がします。 あっちはそうしないとダメな訳ですけれども。 そしてラストのゴラムの裏切りを示唆しての終わりが、前作のいわば旅立ちのすがすがしい終わりと形は似ながら、不協和音の耳障りをこちらに残して、次作への期待感が高まって良かったなあ、と思いました。

一方のローハンルートですが、こちらはもうなんというか見せ場連続というかキャラ萌えしろ、と 言わんばかりというか、ロヒアリムかっこいい〜! とかバトルがすごいよ! セオデン王ステキ! とか しかし正直ワーグアタックは必要だったのか? とかアラゴルンのがけ落ちはどうよとかいろいろいろいろ それはなんというかもう(笑)私が何か言うより映画館で堪能して下さい、という感じです。 ああ、でもアラゴルンかっこよかった! 前から王様スキーだったけどより王様スキーに(笑) 一番格好良かったのは出陣前、ハマの息子に希望を与え、その後に鎖帷子を身につけていくところ。 もうお約束のようにレゴラスの刀差し出しがあって、キター! って感じ(^^) 随所に決めセリフと決めポーズがあって、なんかこう笑えてしまうのでした。 いえ普通にかっこいいんですがね。 演出も王様魅力全開で持っていってるので、この映画後にアメリカで アラゴルン役のヴィゴの人気があがったというのにはすごく納得しました。 今回の彼が魅力的なのは、もちろん話の展開のせいもあるけれど、なんというかアラゴルンを人間らしく見せて きた所にもあるのかな、と思いました。喜怒哀楽をFotRよりはっきり見せているというか、 胡散臭さが取れたというか。 旅の仲間の時のアラゴルンに「アラゴルン卿!」と呼びかけたら違和感があるけれど、二つの塔のアラゴルン は「アラゴルン卿」に違和感がない。ということは王の帰還では「陛下」よばわりに違和感がなくなるのかな〜 すっごい楽しみだ〜〜もちろん陛下が似合うと同時に「そのとおりだよ、サム、馳夫だよ」が似合って欲しいのですが。

さて、エルフが積極的に闘いにきたのにはかなりびっくりしました。 映画ではガラドリエルがエルロンドにそうするように(人間に力を貸すように)示唆してますが、 それがちょっぴり意外でした。その場その場で各人のできることをぎりぎりでやってなんとか 凌いだ指輪戦争、というイメージを持っていたので。映画だと、エルフは指輪戦争には自分たちは かかわらないよう〜ってしてるみたいで。離れ山のドワーフと谷間の国の人間たちが北で闘い、 闇の森のエルフが樹下で闘い、ロリアンがドルグルドウアを落とし、といったあのバックグラウンドが 危ういような気がします。 というかエルロンド卿がアラゴルンに懇願するのは勘弁して〜(泣) ある意味ファラミアの改変よりも自分的にはきついような・・・しくしく。エルロンドとアルウェンとアラゴルンの 関係はかなり映画で変わっていてそれはそれとして受け入れるしかないんですが、エルロンドがアラゴルンに アルウェンを西に行かせよ、というのは違うだろう〜〜! とこっそり言っておきます。 映画のエルロンドはあの時点で全然受け入れてないんですよね、アルウェンとアラゴルンの事を。 うううううう。アルウェンとの父娘の会話は悪くなかったし、(未来予見図として墓所に横たわる王とその後森をさまようアルウェンの所はとても奇麗に撮られてたな〜、と映像の美しさに喜びました。墓所のアラゴルンの”青年期の優雅さと壮年期の勇猛心と老年期の叡智と威厳” の表現に花まるつけちゃったし)ガラドリエルとの遠話の後で、イシルドゥアが サウロンの指輪を切り落とす壁画を前に物思いにふけるエルロンド卿も良かったのですが。 なんだかアルウェンの意志を尊重しないようなエルロンドはうーん・・・です。なんだか アルウェンが道理をわきまえない年端もゆかぬ娘扱いにされているようで。うがちすぎかなあ。
話を戻しますが、戦闘シーンでハルディアが死ぬ所で、彼の視点でオークとエルフが重なり合って同じ ように死んで横たわっているシーンがすごく印象に残りました。前作もそうでしたが、この映画って 死ぬ時は泥まみれで冷たくなって死ぬ、という部分がすごく伝わってきて、そして死ぬ時は案外あっけなくて というのが、より哀しみを誘うというか、なんかクルものがありますね

それからローハンのひとたち。

映画エオメルは原作から抜け出てきたようなすばらしさでした。さすがローハンの三軍団長という感じ と、王の甥という立場を、ワイルドかつ誇り高い騎士として演じられていてかっこよかったです。ただ思っていたより出番が少なくて意外でした。 原作のようにアラゴルンと肩を並べて闘うものだと思っていたので。まあ原作どおりにエルケンブランドがどうとかやってるとまた大変だからなのかな。ペレンノール野での闘いぶりが楽しみ
エオウィンがアラゴルンに恋するのがあの状況では納得、という作り方になっててそのへんが良かったです。 蛇の舌がセオデン王のみに毒の言葉を注いだ訳ではない、というのが分かりやすくなってて。 騎馬の民の姫という、エオウィンらしさが出ていて良かったです。後は次回の活躍に期待。
セオドレドが出てきたのにはびっくりしました。しかし・・しかしあの登場シーン!! 負傷したセオドレドをエオメルが自分の馬の背に抱えて連れてくるシーン・・ショックでした、ちょっと。 がーーーーん。こ、これをここでヤルということは・・あの、ひょっとして王の帰還でイムラヒル大公が 負傷したファラミアを連れて帰ってくるシーンなしですか。しくしく。好きなシーンなのに。 まさか同じシチュエーションはないですよね、きっと。
セオデン王が思ったより若いかな〜と思ったり、なんかちょっと引き気味の王様になっててそれがちょっと 違和感があったり。(かっこいいんですけどね) 違和感といえばアラゴルンが「セオデン王万歳」って声かけるのはちょっとどうかと思うのは私だけでしょうか。 別に部下じゃないんだし。あれはハマかギャムリングにやってもらって欲しかったなあ。 (と思ってたら非公式スクリプトではハマのセリフになってました。私耳悪い・・) その前のグリマを放逐するシーンで血を流されるな、というのがアラゴルンなのもちょっともにょるし・・うう セオデン王はもっとこう別のヒト?みたいな。 (それを言いはじめたらお終いなのですがね(^^;))

あとは追跡組3人がとっても仲良しなのが種族を越えた友がら、という事でほのぼのしてて良かったです。 ギムリとアラゴルンのコンビでの闘いのシーンがかなりあってそれがかなり可愛いかったですし。

エントコース。エントは思っていたよりエントが細いイメージでした。もっと幹と足が太い印象があったのと、 足があんなに長いと思っていなかったので。エントムートでメリピピが退屈して石投げして遊んでる風な 何げなショットとかがお気に入り。メリーのアイゼンガルドの火は広がり、ホビット庄も・・というあたりのセリフと表情がまた良かったです。でもエントが南の木々が伐採されていたのを知らないのはどうかと思ったのですが。エントのアイゼンガルド攻略を決めるシーンがちょっと簡単すぎるかな〜とその辺がメリピピルートでの不満かな。 オルサンクで石投げしてる二人がらぶりーでした。

今回の字幕と吹き替えですが、字幕はいろいろあった後らしく、そんなにこれは間違い! というようなあきらかなものはなくてニュアンス違うんじゃない? くらいの範疇にとどまっている印象です。 それは吹き替えでも同様なので、両方見るとやっぱりおもしろいですね。 吹き替えの訳もなんかちょっと違うかも、ってのはそれなりにありますしね。 もちろん情報量は圧倒的に吹き替えの方が多いですから、話として把握するのも話に入り込むのも 吹き替えの方がいいなあとは思います。目も疲れにくくて映像に集中できますしね。 ただ、なんか自分はFotRのDVDを見まくったせいか、俳優本人の声じゃないと違和感が出るように なってしまったので多分この先見るのはほとんどが字幕になると思います。 吹き替えはかなりがんばっているとは思うのですが、クリストファー・リーの声(魅惑のサルマンボイス)と、ヴィゴ・モーテンセンの声 (あんなにうにゃうにゃ声なのに聞き慣れるとあれ以外がしっくりこなくなるという恐ろしい声)が圧倒的に 俳優本人の声が好きなので、もうどうしようもないですね。

それにしてもまだまだ見たりない感のある二つの塔。あと何回見ることになるかな〜

03/03/03